過去は言葉にしてはじめて確定する
何言ってんだ
この記事のタイトルを見た方が最初に抱く感想はこれじゃないでしょうか。
ほんとにその通り。パッと見何言ってんだと思いますよね。
しかしこれ、考えてみたら面白いんですよ。
大森荘蔵とかいう人
日本の哲学者の一人に大森荘蔵という方がいます。
彼の著作の中に『時間と自我』というものがあります。
今日はこの本の一部を読み解く勉強会を行ったので、その内容を書いていきたいと思います。
大森の時間論
大森は一般的な時間の考え方を否定しています。
その考え方というのが、時間を一つの直線として左を過去、右を未来、ある一点を現在とする考え方です。
皆さんも普段、時間を考えるときは直線的に考えて居るのではないでしょうか?
しかし、大森によれば時間はこんなに単純なものではないそうです。
大森の時間論を一言で言えば、「現在なんてない!過去と未来があるだけだ!現在と思っているのは過去と未来のはざまにある厚みに過ぎない!」
ということです。
正直、僕も何を言ってるのかよくわかりません。
ということで、逃げるように今回の本題に入りたいと思います。
この著作のなかでは、特に過去について詳しく述べられています。
過去を言葉にする
たとえば、「ご飯を食べた」という時、ご飯を食べたのは過去ですね。
「そんなの当たり前だろ!」という声が心の中で叫んでいると思います。
しかし重要なのは、大森によれば「ご飯を食べた」と言葉にしない限り、その出来事は過去のものとはならないという点です。
つまり、言葉にするまで過去というものはぼやっとそこらへんにころがってしまっているだけということなのです。
それを言葉にすることによってはじめて、はっきりとした過去になるというわけです。
過去あって現在(言葉)があるのではなく、現在(言葉)あって過去がある。
と言えるのではないですかね?
「徹夜した」という具体例
僕は、徹夜してこの勉強会に参加しました。徹夜の理由は別に勉強でも何でもありません。音楽聞いてたら朝になっていました。
その話を勉強会にて話したら、一人の同級生が言いました。
「それって、『徹夜した』だけではなくて、『徹夜している』とも言えるんじゃないの?」
たしかに、徹夜って次に寝るまで進行するものですよね。
徹夜は過去にできるのか。この問題に我々は頭を悩ませました。
しかし、仮に徹夜が、「徹夜した」というはっきりとした過去にするなら、あの眠気や体のだるさは一体何だったのでしょうか。
眠さやだるさが進行していることは確実なのだから、やはり徹夜は過去ではなくて進行形なのではないか。
というところで時間切れ。
勉強会は授業の空きコマを使っているため、基本的に1時間半しか時間がありません。残念です。
来週また続きを書けるのではないかと思います。
それではまた。