ハーモニーのやつ

日常と哲学を書くやつ

研究発表とその他

研究発表終わった

結局、多忙から更新頻度がガクッと落ちてしまいました。

理由としては学校の研究発表。題目は「存在論の観点からヒューマニズムを分解、考察~ヒューマニズムこそ世界である~」です。

 

非常に勉強になりました。先輩や先生から僕の考えをボコボコにされて、自分に足りない知識はどこにあるのかが明確になりました。

また機会をいただければぜひともやりたいですね。まあ夏休みにやることも決まってるのですが。怖い。

 

現象学

僕の関心は専らサルトルにあります。

 

サルトル現象学なので、やはり現象学一般の知識がないと発表の場では言葉に詰まりますね。

フッサールあたりからやり始めないと。

あとやっぱり結局は古代のソクラテスプラトンを読まなければと思います。

 

全ての哲学は古代ギリシア哲学の注釈であるという考えがあるくらいですからね。

 

食事の席

研究発表自体もさることながら、その後先生に連れて行っていただいた食事会も勉強になりました。

先生と院に進むことが決まっている先輩から、発表中には時間の関係から指摘できなかったことを教えていただき、僕の今後の研究方針が固まった感じがありました。

 

さて、僕は一体どこに向かうのでしょうか。

 

本格的な中華料理おいしかったです。

 

先生があんなに酔っぱらっているところははじめてみました。

大学の先生って勝手に全能感を感じてしまうけど、やはり人間なんだなぁ。

ごちそうさまでした。

 

カラオケ

そんな真面目な話をした後、また別の先輩とまさかの徹夜でカラオケへ。謎。

お金はすべてその先輩がだしてくださいました。ありがたい。

 

もちろん歌を歌ったのですが、まさかの僕の恋愛相談会が始まり、僕はいろいろと暴露しなくてはならなくなりました。

でもなにか吹っ切れた感があり、話せてよかったと思います。

 

信頼できる先輩だからできることですね。

やっぱり信頼って人間らしいですよね。

 

寝た

昨日の精神的、肉体的疲労からか、今日は本当に一日中寝てました。具体的には朝7時から18時ころまで寝てました。

よくそんなに眠れるな、自分。

 

振り返りは早々に終えて、これからまた勉強していこうと思います。

 

エビチリおいしい。

今日、電車の窓から見えた景色について

特に何かあったわけではない

この通り、何か特別なものが見えたわけではないのです。

ただ、確実に何かが見えていたということは、どういうことなのでしょうか。

 

それは、世界があるということを意味しているのでしょうか。

 

窓から見える景色というのは常に不思議なものです。

一つの額縁に入っている絵が常に動いているような感覚。

 

世界は動くのか

窓からの景色を見ていて思ったことは、このことです。

世界は動くのでしょうか。というのはつまり、私は動くのでしょうか。

ハイデガーによれば、世界=内=存在という存在様相を抱えているわれわれ現存在(自分自身)は世界と常にかかわりあい、それを了解している形で存在しています。

 

ヒューマニズムこそが世界、すなわち世界は人間

しかし、これはやはり世界と現存在をどうしても別のものとしてしまっている思想であるはずです。

しかし本来、ヒューマニズムこそが世界であるはずです。

つまり、人間こそが世界であり、世界は人間でなくてはなりません。

 

「信じる」ということの世界性・人間性

たとえば、飲食店に一人で入り、トイレに行く際に席に財布を置いていったとします。

これは世界を信じているからなせることであるはずです。

仮に「盗まれるのではないか」という疑いを少しでも持ったのなら、この行動は不可能です。

 

この行動を可能にしたのは、「誰も盗まないだろう」という信頼を置いたからではありません。「あそこにいる人たちなら大丈夫だろう」と信じる。つまりは人格を信じているからなのです。

 

このように、世界即ち人格・人間を信じることがヒューマニズムである。

そう私は考えます。

 

 

疲れた。煎餅おいしい。

過去は言葉にしてはじめて確定する

何言ってんだ

この記事のタイトルを見た方が最初に抱く感想はこれじゃないでしょうか。

ほんとにその通り。パッと見何言ってんだと思いますよね。

 

しかしこれ、考えてみたら面白いんですよ

 

大森荘蔵とかいう人

日本の哲学者の一人に大森荘蔵という方がいます。

彼の著作の中に『時間と自我』というものがあります。

今日はこの本の一部を読み解く勉強会を行ったので、その内容を書いていきたいと思います。

 

大森の時間論

大森は一般的な時間の考え方を否定しています。

その考え方というのが、時間を一つの直線として過去未来ある一点現在とする考え方です。

皆さんも普段、時間を考えるときは直線的に考えて居るのではないでしょうか?

 

しかし、大森によれば時間はこんなに単純なものではないそうです。

 

大森の時間論を一言で言えば、「現在なんてない!過去と未来があるだけだ!現在と思っているのは過去と未来のはざまにある厚みに過ぎない!」

ということです。

正直、僕も何を言ってるのかよくわかりません。

 

ということで、逃げるように今回の本題に入りたいと思います。

 

この著作のなかでは、特に過去について詳しく述べられています。

 

過去を言葉にする

たとえば、「ご飯を食べた」という時、ご飯を食べたのは過去ですね。

 

「そんなの当たり前だろ!」という声が心の中で叫んでいると思います。

 

しかし重要なのは、大森によれば「ご飯を食べた」と言葉にしない限り、その出来事は過去のものとはならないという点です。

 

つまり、言葉にするまで過去というものはぼやっとそこらへんにころがってしまっているだけということなのです。

それを言葉にすることによってはじめて、はっきりとした過去になるというわけです。

 

過去あって現在(言葉)があるのではなく、現在(言葉)あって過去がある。

と言えるのではないですかね?

 

「徹夜した」という具体例

僕は、徹夜してこの勉強会に参加しました。徹夜の理由は別に勉強でも何でもありません。音楽聞いてたら朝になっていました。

 

その話を勉強会にて話したら、一人の同級生が言いました。

「それって、『徹夜した』だけではなくて、『徹夜している』とも言えるんじゃないの?」

 

たしかに、徹夜って次に寝るまで進行するものですよね。

徹夜は過去にできるのか。この問題に我々は頭を悩ませました

 

しかし、仮に徹夜が、「徹夜した」というはっきりとした過去にするなら、あの眠気体のだるさは一体何だったのでしょうか。

 

眠さやだるさが進行していることは確実なのだから、やはり徹夜は過去ではなくて進行形なのではないか。

 

 

というところで時間切れ

 

勉強会は授業の空きコマを使っているため、基本的に1時間半しか時間がありません。残念です。

来週また続きを書けるのではないかと思います。

 

それではまた。

はじめましてのやつ

誰なのか

はじめまして。ハーモニーと申します。

 

哲学を専攻する大学生。現在20歳です。男です。

哲学の中でも特に存在論に興味津々であり、フランスの哲学者ジャン=ポール=サルトルやドイツの哲学者マルティンハイデガー愛しております。気持ち悪い男ですね。

大学では哲学カフェを主催しているので、そのこともいずれ書いていけたらなあと考えています。

 

何なのか

まあ、私自身の話は取り敢えずこれくらいにして。 

 

さて、私はなぜこのブログを立ち上げたのでしょうか。

簡単に言えば、その日勉強したことを自分なりにまとめて書き留めておこうという趣旨です。要するに自分のためですね。

具体的な内容としては哲学が主になりますが、趣味で数学も勉強しているのでそちらもたまに書ければと。

あとは日々思ったこととかね。

こう言っておくことによって、その日の閲覧数がゼロでも悲しくならないという保険を姑息にもかけています。

要するに、私以外誰も得をしないブログということです。見なくていいです。

 

7月1日に研究発表があるのでひとまずそれを目標にやっていきます。

題目は「存在論の観点からヒューマニズムを分解、考察・ヒューマニズムこそ世界である」です。何だそれって感じですね。

自分の中でも整理しつつ、ちょっとずつ解説していければなと。

 

面白いのか

上に書いたようなことを書いていきたいと思っているわけですが、果たして面白いのでしょうか

たぶん、ちょっとでも哲学に興味を持っている人であれば面白さを感じていただけるのではないかと思います。

 

さっきは「見なくていいです」とか言いましたが、哲学好きな人はぜひ見てください。お願いします。

好きではない人にもできる限り面白く解説したいと思っているのでとりあえず見てみてください。

要するに全人類見てください

 

最後に

そんな感じでやっていくこのブログ。

正直ノリで始めているのでどうなるかよくわかりません。書くときはまじめに書きますけど、更新頻度もよくわかりません。適当です

私自身適当な人間なので

 

今日はこんなもんで。

おいしい。